第十章 近世きんせい学問がくもん学習がくしゅう文化ぶんか

第一節 近世きんせい学問がくもん

(一)近世儒学きんせいじゅがくはじまり

近世以前きんせいいぜん儒学じゅがく 儒学じゅがく日本にほんへの伝来でんらいは、5世紀せいき古代こだいにさかのぼることができる。朝鮮半島ちょうせんはんとうとおじて、儒学じゅがく漢字文化かんじぶんかとその当時とうじ先進的せんしんてき知識ちしき知識人ちしきじんとともにつたわってきた。7世紀せいき以降、日本にほん中国ちゅうごく律令制度りつりょうせいどにならって政治せいじ展開てんかいした。そして、りょう学制がくせいもとづいて、「大学寮だいがくりょう」(官吏養成かんりようせいのための最高教育機関さいこうきょういくきかん)において制度的せいどてき儒学教育じゅがくきょういくすすめていった。以来いらい儒学じゅがく中原氏なかはら清原氏きよはらなどの博士家はかせけ貴族きぞくによって、家学かがくとして独占どくせんされていた。中世ちゅうせいには、中国ちゅうごく渡航とこうした禅僧ぜんそうによって大量たいりょう書籍しょせきがもたらされ、宋学そうがく北宋ほくそうおこ南宋なんそう朱熹しゅきによって大成たいせいされた学問がくもん新儒学しんじゅがく道学どうがく理学りがくなどとも。)が導入どうにゅうされた。禅僧ぜんそう禅儒一致ぜんじゅいっち立場たちばから、儒学じゅがく禅学ぜんがくのいわば附属ふぞく的な学問がくもんとしていた。

近世初期きんせいしょき儒学じゅがく 近世きんせいいたって、博士家はかせけ禅僧ぜんそうわって、ようやく自覚的じかくてき儒家じゅか登場とうじょうした。近世儒学きんせいじゅがく開祖かいそひょうされる藤原惺窩ふじわらせいか(1561-1619)である。惺窩せいか門下もんか林羅山はやしらざん(1583-1657)や松永尺五まつながせきご(1592-1657)など多数たすう学者がくしゃ輩出はいしゅつした。林羅山はやしらざん道春どうしゅんしょうして、僧侶そうりょ資格しかく家康いえやす以下4だい将軍しょうぐんつかえ、歴史書れきししょ編纂へんさん幕府ばくふ法度はっとなどの公文書こうぶんしょ起草きそうかかわった。その博覧強記はくらんきょうき才能さいのうわれた羅山らざんは、他方たほうで『春鑑抄しゅんかんしょう』などの朱子学しゅしがく啓蒙書けいもうしょあらわしたり、朱子しゅし四書集注ししょしゅうちゅう』などおおくの漢籍かんせき訓点くんてんほどこしたとして、朱子学しゅしがく普及ふきゅうつとめた。

羅山らざんはそのほかにも、様々さまざま分野ぶんや知識ちしき関心かんしんしめし、おおくの著述ちょじゅつのこした。なお、羅山らざん門人もんじんそだてるために私邸していひらいたじゅくは、のち幕府ばくふ学問所がくもんじょ昌平坂学問所しょうへいざかがくもんじょとなった。

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学習ポイント
  1. 近世儒学きんせいじゅがくおよび国学こくがく蘭学らんがく
  2. 近世きんせい文字文化もじぶんか
  3. 近世きんせい学習文化がくしゅうぶんか

(二)近世儒学きんせいじゅがく展開てんかい

明代注釈書みんだいちゅうしゃくしょによる朱子学しゅしがく理解りかい 近世きんせい儒者じゅしゃたちは、大陸たいりく半島はんとうから舶載はくさいされてきた漢籍かんせきんで儒学じゅがくまなんだ。その舶載書はくさいしょなかには、明代みんだい出版しゅっぱんされてきた朱子学しゅしがく注釈書ちゅうしゃくしょがたくさんあった。『四書大全ししょたいぜん』(みん永楽帝えいらくていめい編纂へんさんされた四書ししょ注釈書ちゅうしゃくしょ)などはその代表だいひょうである。それらの注釈書ちゅうしゃくしょはほとんどが科挙かきょのための学習書がくしゅうしょであった。日本にほん中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんちがって科挙かきょはなかったが、日本にほん儒者じゅしゃたちは明代みんだい科挙かきょ学習書がくしゅうしょ注釈書ちゅうしゃくしょによって朱子学しゅしがく理解りかいしていた。とくに、近世前期きんせいぜんき儒者じゅしゃたちは、みなこのような過程かていてそれぞれの思想しそう形成けいせいしていった。

林羅山はやしらざん舶載書はくさいしょ選書せんしょたずさわり、そしておおくの漢籍かんせき訓点くんてんけた。羅山らざんけた訓点くんてんは「道春点どうしゅんてん」という。朱子学者しゅしがくしゃ福岡藩儒ふくおかはんじゅだった貝原益軒かいばらえきけん(1630-1714)も舶載書はくさいしょ選書せんしょ担当たんとうしていた。かれ明代みんだい注釈書ちゅうしゃくしょ版本はんぽん大量たいりょうあつめ、それらをもとに自分じぶんで『大学だいがく』の注釈書ちゅうしゃくしょをもつくったりした。また、益軒えきけん漢籍かんせき訓点くんてんけた。「貝原点かいばらてん」がそれである。

中江藤樹なかえとうじゅ 後世こうせい近江聖人おうみせいじん」とばれた中江藤樹なかえとうじゅ(1608-48)は、『四書大全ししょたいぜん』などによって明代みんだい儒学じゅがく思想しそう積極的せっきょくてき摂取せっしゅし、その思想しそう形成けいせいした。かれ博覧はくらん林羅山はやしらざんたんなる知識ちしき紹介しょうかい学問がくもんぎないと批判ひはんした。藤樹とうじゅにおいては、儒学じゅがくきるための学問がくもんでなければならない。かれ身体しんたいとおじて学問がくもん実践じっせんしようとした。その主著しゅちょ翁問答おきなもんどう』などに顕著けんちょられるように、藤樹とうじゅこう思想しそうは、実践じっせん目指めざ宗教的しゅうきょうてき性格せいかく色濃いろこっている。『翁問答おきなもんどう執筆しっぴつのころから、徐々じょじょ朱子学しゅしがくから陽明学ようめいがくへとすすんだ藤樹とうじゅは、晩年ばんねん(1644)に『陽明全書ようめいぜんしょ』を以後いご

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陽明学ようめいがく傾倒けいとうした。そのことから、日本陽明学にほんようめいがくしょうせられることもあるが、疑問視ぎもんしする意見いけんもある。なお、藤樹とうじゅ代表的だいひょうてき門人もんじんとしては、熊沢蕃山くまざわばんざん(1619-91)や淵岡山ふちこうざん(1617-86)がげられる。

山崎闇斎やまざきあんさい 山崎闇斎やまざきあんさい(1618-82)は、近世前期きんせいぜんき代表的だいひょうてき朱子学者しゅしがくしゃで、そして垂加神道すいかしんとう提唱者ていしょうしゃである。闇斎あんさいは、明代みんだい朱子学しゅしがく注釈書ちゅうしゃくしょとおじて朱子しゅし思想しそう理解りかいすることを排斥はいせきし、朱子しゅしそのひと言葉ことばそくしてまなぶべきことを強調きょうちょうした。ようするに『四書集注ししょしゅうちゅう』をはじめとした朱子しゅし著述ちょじゅつ精読せいどくし、そしてそのなかから朱子しゅしの〈真意しんい〉をあきらかにし、それを体認たいにんするという学問方法がくもんほうほうである。そのことによって、闇斎あんさい日本にほんにおける朱子学しゅしがく研究けんきゅう水準すいじゅんおおきくげたのである。他方たほう闇斎あんさい中世以来ちゅうせいいらい諸神道説しょしんとうせつ集大成しゅうたいせいし、そして、朱子学しゅしがく神道しんとう一致いっち主張しゅちょうして垂加神道すいかしんとう創唱そうしょうした。闇斎あんさい学風がくふう門人もんじんへの教育きょういく

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峻厳しゅんげんひょうされたが、おおくの門人もんじんそだち、「崎門三傑きもんさんけつ」としょうされた佐藤直方さとうなおかた(1650-1719)、浅見絅斎あさみけいさい(1652-1711)、三宅尚斎みやけしょうさい(1662-1741)らが輩出はいしゅつした。

山鹿素行やまがそこう 一方いっぽう、はじめ朱子学しゅしがくおさめたが、のちにそれを批判ひはんし、直接ちょくせつ古代こだい経書けいしょについてまなぶことをものてきた。山鹿素行やまがそこう(1622-85)は、最初さいしょ林羅山はやしらざんについて朱子学しゅしがくまなんだ。また、軍学ぐんがく和学わがくをもおさめ、神道しんとう老荘ろうそうなどに関心かんしんっていた。かれ朱子しゅしの「性理学せいりがく」を主観主義しゅかんしゅぎとして批判ひはんし、現実げんじつ事物じぶつそくして「」をあきらかにすることをいた。みずからの学問がくもんを「聖学せいがく」とび、『山鹿語類やまがごるい』やその摘要てきよう聖教要録せいきょうようろく』などの著作ちょさく集大成しゅうたいせいした。朱子学しゅしがく批判ひはんした『聖教要録せいきょうようろく』の出版しゅっぱん(1666)は幕府ばくふとがめられ、赤穂あこう配流はいるされた。

伊藤仁斎いとうじんさい 伊藤仁斎いとうじんさい(1627-1705)は朱子学しゅしがく批判ひはんし、『論語ろんご』などを経書けいしょ本来ほんらい意義いぎをとらえる「古義学こぎがく」をとなえた。仁斎じんさいは『論語ろんご』を「最上至極宇宙第一さいじょうしごくうちゅうだいいちしょ」と称賛しょうさんし、その「義疏ぎしょ」としての『孟子もうし』をも重視じゅうしして、孔子こうし教説きょうせつ古義こぎあきらかにしようとした。かれは『四書集注ししょしゅうちゅう』『四書大全ししょたいぜん』などの朱子学しゅしがく解釈体系かいしゃくたいけい批判的ひはんてき解体かいたいし、『語孟字義ごもうじぎ』『論語古義ろんごこぎ』『孟子古義もうしこぎ』などをあらわした。仁斎じんさい生前せいぜんにそのじゅく古義堂こぎどう」をおとずれたものは3,000にんえたという。嗣子しし東涯とうがい(1670-1736)はその学問がくもんじゅくいで、仁斎じんさい著作ちょさく校訂出版こうていしゅっぱん古義学こぎがく普及ふきゅうつとめた。

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荻生徂徠おぎゅうそらい みん古文辞派こぶんじは影響えいきょうけた荻生徂徠おぎゅうそらい(1666-1728)は、朱子学しゅしがく仁斎学じんさいがく批判ひはんし、六経りっけい依拠いきょして「先王せんおうみち」をかかげるあたらしい古学こがくとなえた。仁斎じんさい古学こがくは、『論語ろんご』の「孔子こうしみち」にもとづき、「みち」を人倫じんりん世界せかい限定げんていしていた。一方いっぽう徂徠そらいの「先王せんおうみち」にもとづく古学こがくは、「みち」を政治せいじ制度せいど限定げんていした。かれ主著しゅちょに『弁道べんどう』『弁名べんめい』『論語徴ろんごちょう』や、経世論けいせいろんの『太平策たいへいさく』『政談せいだん』などがあった。いにしえ言語げんごのありかたにそくして、いにしえ言葉ことばあきらかにしようとする徂徠そらい古学こがく方法論ほうほうろんは、国学者こくがくしゃ本居宣長もとおりのりながなどにも影響えいきょうあたえた。なお、徂徠そらい門人もんじんに、経世派けいせいは代表だいひょうする太宰春台だざいしゅんだい(1680-1747)や、詩文派しぶんは代表だいひょうする服部南郭はっとりなんかく(1683-1759)などがいた。

徂徠そらい以後、徂徠学そらいがく継承けいしょうするものや、徂徠学そらいがく批判ひはんするものあらわれ、近世後期きんせいこうき儒学界じゅがくかいをにぎわした。折衷学者せっちゅうがくしゃ徂徠そらい古学こがく批判ひはんし、諸学しょがく長所ちょうしょ折衷せっちゅうしようとした。朱子学しゅしがく正学せいがくとした儒者じゅしゃたちは徂徠学そらいがくを「功利こうりがく」として批判ひはんし、道徳教化どうとくきょうかによって秩序ちつじょ再建さいけんはかった。また、大坂おおさか懐徳堂かいとくどう諸儒しょじゅは、徂徠学そらいがく批判ひはんしつつ、多彩たさい知的ちてきいとなみを展開てんかいした。

(三)国学こくがく

国学こくがくとは、近世中期きんせいちゅうきころから、『万葉集まんようしゅう』や『古事記こじき』など日本にほん古典こてん研究けんきゅうし、「日本古来にほんこらい精神せいしん」をあきらかにしようとする学問がくもんである。大坂おおさか僧侶そうりょ契沖けいちゅう(1640-1701)は、『万葉代匠記まんようだいしょうき』(1690)をあらわした。それは水戸みと徳川光圀とくがわみつくに(1628-1700)の依頼いらいけて、『万葉集まんようしゅう』の注釈書ちゅうしゃくしょとしていたものである。かれは、古語こご研究けんきゅうとおじて実証的じっしょうてき古典こてん解釈かいしゃくする、文献学的ぶんけんがくてき方法ほうほうった。

京都きょうと伏見稲荷ふしみいなり神官しんかん荷田春満かだのあずままろ(1669-1736)は、契沖けいちゅう学問がくもん影響えいきょうけて、和歌わか神道説しんとうせつとの融合ゆうごうはかった。春満あずままろ門人もんじん賀茂真淵かものまぶち(1697-1769)は、契沖けいちゅう文献学的ぶんけんがくてき方法ほうほうれて、『万葉集まんようしゅう』などの研究けんきゅうちからそそぎ、『万葉考まんようこう』をあらわした。そして、純朴じゅんぼく力強ちからづよい「ますらおぶり」という万葉調まんようちょう歌風かふう提唱ていしょうした。真淵まぶち晩年ばんねん門人もんじんに、

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本居宣長もとおりのりなが(1730-1801)がいた。

本居宣長もとおりのりなが 宣長のりながはじめ医学いがく儒学じゅがくまなび、とく荻生徂徠おぎゅうそらい古文辞学こぶんじがくおおきな影響えいきょうけた。のち日本古典にほんこてん研究けんきゅうすすみ、契沖けいちゅう以来の国学研究こくがくけんきゅう大成たいせいした。かれは『源氏物語げんじものがたり』などの研究けんきゅうによって、物語ものがたり本質ほんしつとして「もののあわれ」ろんいた。そして、『古事記こじき』の研究けんきゅうちからくし、三十余年さんじゅうよねんをかけて『古事記伝こじきでん』(1798)を完成かんせいさせた。宣長のりながは、仏教ぶっきょう儒学じゅがくなどの外来がいらい思想しそうを「漢心からごころ」として批判ひはんし、日本にほん固有こゆう思想しそう復活ふっかつさせようとする「古道こどうろんとなえた。

平田篤胤ひらたあつたね 平田篤胤ひらたあつたね(1776-1843)は、本居宣長もとおりのりなが死後しごにその門人もんじん自称じしょうし、独自どくじ国学こくがく主張しゅちょうした。かれはさらに古道論こどうろん強調きょうちょうし、宗教しゅうきょうとしての神道理論しんとうりろんへと発展はってんさせた。その思想しそう幕末ばくまつに、地方ちほう神官しんかん豪農ごうのうたちにれられ、「草莽そうもう国学こくがく」となって地域ちいき浸透しんとうした。

(四)洋学ようがく

鎖国さこく蘭学らんがく 近世きんせい西洋学術せいようがくじゅつ研究けんきゅうは、洋学ようがく総称そうしょうされる。幕府ばくふ鎖国政策さこくせいさくにより、西洋せいようではオランダだけが通商つうしょうゆるされた。そのため、オランダ・オランダじんとおじてもたらされた西洋せいよう学問がくもん知識ちしきは、一般いっぱんに「蘭学らんがく」とわれる。

解体新書かいたいしんしょ 前野良沢まえのりょうたく(1723-1803)は杉田玄白すぎたげんぱく(1733-1817)らとともに、1771(明和めいわ8)ねん江戸えど小塚原こつかはら荒川区南千住あらかわくみなみせんじゅ)で刑死けいしした死体したい解剖かいぼうった。そのときかれらはオランダ翻訳ほんやくされた解剖書かいぼうしょ『ターヘル・アナトミア』(解剖学表かいぼうがくひょう)の解剖図かいぼうず正確せいかくさにおどろいた。そこで、そのしょを『解体新書かいたいしんしょ』(1774)として翻訳ほんやくして刊行かんこうした。玄白げんぱくはその翻訳ほんやく苦労くろうを『蘭学事始らんがくことはじめ』(1815)にのこしている。良沢りょうたく玄白げんぱくおしえられた大槻玄沢おおつきげんたく(1757-1827)は、蘭学らんがく入門書にゅうもんしょ蘭学階梯らんがくかいてい』(1783)をあらわした。そして、蘭学塾らんがくじゅく芝蘭堂しらんどう」をひらいて一般いっぱん蘭学らんがくひろめた。

洋学ようがく当初とうしょ医学いがくからはじまったが、次第しだい人文科学じんぶんかがく自然科学しぜんかがく様々さまざま分野ぶんやひろがっていった。

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平賀源内ひらがげんない司馬江漢しばこうかん 平賀源内ひらがげんない(1728-79)は博物学はくぶつがくつうじて蘭学らんがくひろめた。そして、長崎遊学ながさきゆうがく中に西洋画せいようが技法ぎほうまなび、油絵あぶらえ洋風画ようふうがえがいた。司馬江漢しばこうかん(1747-1818)は、当初とうしょ狩野派かのうは絵画かいがまなび、いで浮世絵うきよええがいた。のち平賀源内ひらがげんないらとまじわり、西洋画せいようがへの関心かんしんふかめた。蘭書らんしょによって、腐食銅版画ふしょくどうはんが自製じせい成功せいこうしている。また、油絵あぶらえ西洋画せいようが多数たすうえがいた。長崎遊学ながさきゆうがくのち天文学てんもんがく地理学ちりがくへも関心かんしんふかめた。江漢こうかんは、コペルニクスの地動説ちどうせつ紹介しょうかいした『和蘭天説おらんだてんせつ』(1795)や、ヨーロッパを中心ちゅうしん世界地理せかいちりろんじた『和蘭通舶おらんだつうはく』(1805)などをのこした。

第二節だいにせつ 近世きんせい文字文化もじぶんか

(一)文字社会もじしゃかい

兵農分離へいのうぶんり文字社会もじしゃかい 近世きんせいは「文字社会もじしゃかい」であった。文字もじ社会しゃかい浸透しんとうし、文字もじ使用しよう前提ぜんていにした社会しゃかいのシステムがつくられた。近世社会きんせいしゃかい兵農分離体制へいのうぶんりたいせいだったので、少数しょうすう武士ぶしへい)が都市とし集住しゅうじゅうし、むら多数たすうの「農民のうみん」(農民のうみん山民さんみんふくめる)を支配しはいしていた。そのもとで、直接的ちょくせつてき人身支配じんしんしはいではなく、武士ぶし文字もじいた文書もんじょ法令ほうれい使つかって、むら農民のうみん支配しはいする。つまり、近世社会きんせいしゃかい文書行政もんじょぎょうせいとなっていた。うえからしたへの行政情報ぎょうせいじょうほうだけではなく、したからうえへの申告しんこく陳情ちんじょう訴訟そしょうなども、すべて文書もんじょかたちにしなければならなかった。そのため、文字もじらなければ不利益ふりえきける。

村請制むらうけせい 農民のうみん領主りょうしゅ年貢ねんぐおさめる義務ぎむがあった。年貢ねんぐ納入のうにゅうむら単位たんい責任せきにん村請制むらうけせいだったが、村内そんない各戸かくこへの割付わりつけ村役人むらやくにん自治じち政治だったむら有力村民ゆうりょくそんみんつとめた)によっておこなわれた。当然とうぜん村役人むらやくにんには高度こうど書記能力しょきのうりょく数学能力すうがくのうりょく必須ひっすだった。しかし、農民のうみんにも識字しきじ計算けいさん能力のうりょくがなければ、村役人むらやくにん不正ふせいがあった場合ばあい、それを見抜みぬくことができない。また、農民のうみん収穫物しゅうかくぶつ商品しょうひんとして都市としるためにも、文字もじ計算能力けいさんのうりょく必要ひつようであった。

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そして、都市とし貨幣経済かへいけいざい生活せいかつとなれば、さらにうまでもない。

手習てなら 江戸時代えどじだい民衆みんしゅうたちは、手習塾てならいじゅく子供こども手習てならいをおしえるじゅく上方かみがたでは「寺子屋てらこや」という)で文字もじまなんだ。7さい前後ぜんごから10さいぎぐらいまでに、そこで文字もじただしくきすること(識字能力しきじのうりょく書記能力しょきのうりょく)、そして文字もじうつくしく上手じょうずわざ(「能書のうしょ」)をにつけた。また、社会生活しゃかいせいかつ必要ひつよう知識ちしきなか規範きはん道徳的どうとくてき心得こころえなどの習得しゅうとくもとめられた。「書礼しょれい」という文字使用もじしよう約束事やくそくごとをはじめ、政治的せいじてき文書もんじょ職業的しょくぎょうてき文書もんじょなどは、すべて手習塾てならいじゅくおしえられていた。「三行半みくだりはん」と通称つうしょうされる離縁状りえんじょうさえ、子供こども手習てならいしたという。なお、手習塾てならいじゅくでは大抵たいていお家流おいえりゅう」という書流しょりゅうおしえられていた。それは、鎌倉後期かまくらこうき青蓮院流しょうれんいんりゅう系統けいとう和様書道わようしょどう流派りゅうはで、優美ゆうび草書体そうしょたいである。江戸時代えどじだいつうじて、もっともひろ使用しようされていた。

共通きょうつう書記言語しょきげんご漢文かんぶん 江戸時代えどじだいには、口頭こうとうはな言葉ことば地方差ちほうさおおきかったが、文字言語もじげんご書記言語しょきげんご文字文化もじぶんか共通きょうつうしていた。ここは日本列島内にほんれっとうないにとどまることではなかった。東アジアひがしアジア漢字文化圏かんじぶんかけんてはめてもおなじようなことがえる。中国語ちゅうごくご朝鮮語ちょうせんごというように、それぞれ日本語にほんごとはちが音声言語おんせいげんご使つかわれていた。しかし、漢文かんぶん共通きょうつうする書記言語しょきげんごであった。

(二)商業出版しょうぎょうしゅっぱん文化ぶんか大衆化たいしゅうか

商業出版しょうぎょうしゅっぱんはじまり 日本にほんでは、ふるくから出版しゅっぱんおこなわれていた。現存げんそんする世界最古せかいさいこ印刷物いんさつぶつである百万塔陀羅尼ひゃくまんとうだらに奈良時代ならじだいの8世紀後半せいきこうはんのものである。それ以降いこう中世ちゅうせい禅宗寺院ぜんしゅうじいんによる五山版ごさんばんや、16世紀後半せいきこうはん宣教師せんきょうしによるキリシタンばんがあった。また、近世初期きんせいしょきには天皇てんのう幕府ばくふ意思いしによる出版物しゅっぱんぶつもあった。しかし、それらはいずれも特権階層とっけんかいそうのためのもので、商業出版しょうぎょうしゅっぱんではなかった。営利えいりのための出版しゅっぱんは1630年代ねんだい京都きょうとの「本屋ほんや」(出版書肆しゅっぱんしょし)にはじまった。のち大坂おおさかにもあらわれ、18世紀中期以後せいきちゅうきいごには出版書肆しゅっぱんしょし江戸えどでも盛況せいきょうむかえた。

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商業出版しょうぎょうしゅっぱんともない、出版部数しゅっぱんぶすう増加ぞうかした。そして、印刷方法いんさつほうほう木活字本もっかつじぼんから整版本せいはんぼんへとわった。活字かつじ再利用さいりようできる木活字本もっかつじぼんは、出版費しゅっぱんひやすいものの印刷部数いんさつぶすうすくなく、大量出版たいりょうしゅっぱんかない。一方いっぽう版木はんぎ直接ちょくせつ文字もじなどを伝統的でんとうてき方法ほうほうによる整版本せいはんぼんは、千部以上せんぶいじょう印刷いんさつにもえられ、もきれいに仕上しあがるので、大量出版たいりょうしゅっぱんってけであった。

文化ぶんか大衆化たいしゅうか 商業出版しょうぎょうしゅっぱんさかんだった背景はいけいに、読者人口どくしゃじんこう増加ぞうかしたという事実じじつがあった。また、それは能力のうりょくのある人口じんこう顕著けんちょえたことを意味いみする。そして、商業出版しょうぎょうしゅっぱん文化ぶんか大衆化たいしゅうかをもたらした。浮世草子うきよぞうしなど庶民しょみんけの娯楽的ごらくてきもの登場とうじょうし、井原西鶴いはらさいかくはその気運きうん一挙いっきょれっ作家となった。また、のう浄瑠璃じょうるり茶道さどう華道かどうなど諸芸しょげい手本てほん出版しゅっぱんも、商業出版しょうぎょうしゅっぱんふか関係かんけいがあった。

現在げんざい、『徒然草つれづれぐさ』『伊勢物語いせものがたり』『源氏物語げんじものがたり』『万葉集まんようしゅう』『古今和歌集こきんわかしゅう』『枕草子まくらのそうし』などの作品さくひんは、ひろしたしまれる「日本にほん古典こてん」となっている。しかし、それらは17世紀せいき相次あいついで出版しゅっぱんされるまでは、一部いちぶ公家知識人層くげちしきじんそう伝写でんしゃされていただけだった。つまり、「日本にほん古典こてん」となされる諸作品しょさくひんは、じつは17世紀せいき出現しゅつげんした出版しゅっぱんメディアがした、とっても過言かごんではない。

貝原益軒かいばらえきけん益軒本えきけんぼん 長生術ちょうせいじゅついた『養生訓ようじょうくん』の著者ちょしゃとしてよくられる貝原益軒かいばらえきけんは、この出版しゅっぱんメディアを発見はっけんした最初さいしょ儒者じゅしゃである。かれ百余ひゃくよりのタイトル、二百にひゃく数十巻すうじっかんのぼった膨大ぼうだいかず著作ちょさくのこした。なかでも、漢文かんぶん経学書けいがくしょより、平易へいい和文わぶん実用書じつようしょ(『三礼口訣さんれいくけつ』など)や学習書がくしゅうしょ(『和字解わじかい』など)、そして教訓書きょうくんしょ類(『大和俗訓やまとぞっくん』『和俗童子訓わぞくどうじくん』など。明治後期めいじこうきに「益軒十訓えきけんじっくん」と総称そうしょう)を大量たいりょういた。「益軒本えきけんぼん」と総称そうしょうされるこれらの和文著作わぶんちょさくは、どれも一般多数いっぱんたすう読者どくしゃ漢文読者かんぶんどくしゃ娯楽読者ごらくどくしゃ中間ちゅうかんけにかれたものである。識字能力しきじのうりょくはあるものの「学問がくもん」のレベルレベルとどかない一般庶民いっぱんしょみんは、「益軒本えきけんぼん」をにして自己学習じこがくしゅうした。かれらは読書どくしょによって「教養きょうよう」を

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つけていた。我々われわれがイメージするおなじみの近代きんだい読書風景どくしょふうけいは、江戸時代えどじだいにすでにはじまったとえよう。

第三節だいさんせつ 近世きんせい学習文化がくしゅうぶんか

(一)手習塾てならいじゅく

一対一いちたいいち人格的関係じんかくてきかんけい 江戸時代えどじだい子供こどもたちは手習塾てならいじゅく文字もじきなどをまなんだ。近代きんだい学校がっこうのような一斉入学いっせいにゅうがくちがって、手習師匠てならいししょうへの入門にゅうもんさだまった年齢ねんれい時期じきもなかった。師匠ししょう許可きょかさえあれば、いつでも入門にゅうもんすることができた。師匠ししょう弟子でし一対一いちたいいち人格的じんかくてき関係かんけいむすぶことになるため、師匠ししょう子供こどもへの影響えいきょうおおきかった。くために、おや子供こどものために人柄ひとがらおしかたなどを考慮こうりょれて師匠ししょうえらんでいた。

個別学習こべつがくしゅう自己学習じこがくしゅう 手習塾てならいじゅく登校時間とうこうじかん一定いっていではなかった。あさ子供こどもたちはそれぞれのいえ生活時間せいかつじかんわせて登校とうこうした。また、個別学習こべつがくしゅう自己学習じこがくしゅう基本きほんとなっていたため、一斉教授いっせいきょうじゅではなかった。師匠ししょうからそれぞれ手本てほんわたされ、それをひたすら手習てならいするだけのかえしだった。つくえ普通ふつう天板てんばんあしが2つついた、装飾そうしょくのない横長よこなが経机きょうづくえ使つかわれた。天板てんばん裏側うらがわ大抵たいてい天満天神てんまんてんじん」(学問がくもんかみ菅原道真すがわらのみちざね)としるされることから、「天神机てんじんつくえ」とばれた。そして、つくえならかたいま学校がっこう教室きょうしつちがって、その時々ときどき自由じゆうならべられた。

手習塾てならいじゅくには近代学校きんだいがっこうのようなカリキュラムもなかった。あくまでまながわ都合つごう意思いしによって必要ひつようなだけまなぶのが、手習塾てならいじゅく自己学習じこがくしゅう基本きほんであった。

(二)儒学じゅがくまな

儒学じゅがく経書けいしょ学問がくもん 江戸時代えどじだいたんに「学問がくもん」とえば、それは儒学じゅがくのことであった。儒学じゅがくとは、ようするに四書五経ししょごきょう代表だいひょうされる「経書けいしょ」をむことにてっした学問がくもんである。儒学じゅがく学習がくしゅうは、以下いかのようなだん

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かいによっておこなわれた。

素読そどく まず、子供時代こどもじだいに、『孝経こうきょう』や四書ししょの「素読そどく」からはじめた。素読そどくとは、経書けいしょこえして正確せいかくみ、ひたすらかえすことでその全文ぜんぶん暗唱あんしょうしてしまうことである。この段階だんかいでは、経書けいしょ意味いみについては原則げんそくとしておしえない。なお、素読そどく開始かいし年齢ねんれいは、かぞどしで7、8さいてきしているとかんがえられていた。そして、素読そどく手習てならいのまなびとおなじく、個別指導こべつしどう自己学習じこがくしゅう原則げんそくおこなわれた。

講義こうぎ 素読そどくつぎは「講義こうぎ」の段階だんかいはいる。「講義こうぎ」とは、経書けいしょの「」(意味いみ解釈かいしゃく)を口頭こうとうで「こう」ずるという意味いみである。これも一斉教授いっせいきょうじゅではなく、学生がくせい一人一人ひとりひとりに、個別こべつ経書けいしょ一字一句いちじいっく意味いみおしえられた。

会業かいぎょう そのつぎは「会業かいぎょう」である。これは素読そどく講義こうぎ課程かてい一通ひととおえ、ほぼ独力どくりょく漢籍かんせきむ「自習じしゅう」レベルの学生がくせいたち(数人すうにんから十数人じゅうすうにん)の共同学習きょうどうがくしゅうである。「会読かいどく」と「輪講りんこう」の2つがあり、いずれも当番とうばんめて輪番りんばん報告ほうこくし、それをもとにみな議論ぎろんするものである。「会読かいどく」は、経書けいしょ以外いがい漢籍かんせきしゅう)をテキストとして、おおくの分量ぶんりょうむことに重点じゅうてんいた。これはいまでいう読書会どくしょかいちかい。他方たほう、「輪講りんこう」は輪番りんばんでメンバーのまえ経書けいしょを「講義こうぎ」することである。

文責ぶんせき田世民でんせいみん

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確認してみよう

一、次の文章を読み、正しいものを下記から一つ選びなさい。

  1. 近世きんせいいたって、博士家はかせけ禅僧ぜんそうわって、ようやく自覚的じかくてき儒家じゅか登場とうじょうした。近世儒学きんせいじゅがく開祖かいそひょうされる(a. 藤原惺窩ふじわらせいか、b. 林羅山はやしらざん、c. 松永尺五まつながしゃくご)である。
  2. 山崎闇斎やまざきあんさい中世以来ちゅうせいいらい諸神道説しょしんとうせつ集大成しゅうたいせいし、そして朱子学しゅしがく神道しんとう一致いっち主張しゅちょうして(a. 伊勢神道いせしんとう、b. 吉田神道よしだしんとう、c. 垂加神道すいかしんとう)を創唱そうしょうした。
  3. 前野良沢まえのりょうたくらはオランダ翻訳ほんやくされた解剖書かいぼうしょ『ターヘル・アナトミア』の解剖図かいぼうず正確せいかくさにおどろいた。そこで、そのしょを(a.『解剖新書かいぼうしんしょ』、b.『解体新書かいたいしんしょ』、c.『解釈新書かいしゃくしんしょ』)として翻訳ほんやくして刊行かんこうした。
  4. 江戸時代えどじだいには、(a. 三行半みくだりはん、b. 四行半よぎょうはん、c. 五行半ごぎょうはん)と通称つうしょうされる離縁状りえんじょうさえ、子供こども手習てならいしたという。
  5. 江戸時代えどじだいたんに「学問がくもん」とえば、それは(a. 国学こくがく、b. 蘭学らんがく、c. 儒学じゅがく)のことであった。

二、次の文章を読み、空欄に適切な言葉を入れなさい。

  1. 林羅山はやしらざん舶載書はくさいしょ選書せんしょたずさわり、そしておおくの漢籍かんせき訓点くんてんけた。羅山らざんけた訓点くんてんは(   )という。
  2. (   )はじめ医学いがく儒学じゅがくまなび、とく荻生徂徠おぎゅうそらい古文辞学こぶんじがくおおきな影響えいきょうけた。のち日本古典にほんこてん研究けんきゅうにもすすみ、契沖けいちゅう以来の国学研究こくがくけんきゅう大成たいせいした。
  3. 司馬江漢しばこうかんは、コペルニクスの(   )を紹介しょうかいした『和蘭天説おらんだてんせつ』や、ヨーロッパを中心ちゅうしん世界地理せかいちりろんじた『和蘭通舶おらんだつうはく』などをのこした。
  4. 版木はんぎ直接ちょくせつ文字もじなどを伝統的でんとうてき方法ほうほうによる(   )は、千部以上せんぶいじょう印刷いんさつにもえられ、もきれいに仕上しあがるので、大量出版たいりょうしゅっぱんってけであった。

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  1. 江戸時代えどじだい子供こどもたちは(  )で文字もじきなどをまなんだ。

三、つぎ文章ぶんしょうみ、設問せつもんこたえなさい。

  1. 近世きんせい前期ぜんき儒者じゅしゃたちは、どのような過程かていてそれぞれの思想しそう形成けいせいしていったのか、かんがえてみてください。
  2. 近世きんせい前期ぜんき、はじめ朱子学しゅしがくおさめたが、のちにそれを批判ひはんし、直接ちょくせつ古代経書こだいけいしょについてまなぶことをものてきた。その代表者だいひょうしゃを3にんげてください。
  3. 近世きんせい西洋学術せいようがくじゅつ研究けんきゅうは、洋学ようがく総称そうしょうされるが、なぜ一般いっぱんに「蘭学らんがく」とばれるのか、かんがえてみてください。
  4. 現在げんざい、「日本にほん古典こてん」となされる諸作品しょさくひんは、どのようにまれたのか、かんがえてみてください。
  5. 江戸時代えどじだいにおける儒者じゅしゃ学習がくしゅうは、どのような段階だんかいによっておこなわれたのか、かんがえてみてください。

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参考文献さんこうぶんけん

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